地方の弁護士八面六臂・田舎の弁護士七転八倒

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文学作品と誤り

 近年、小説を読んでいて、これは、間違いと言うべきだと感じたり、間違いと言えないとしても、著しく不適切だと感じたりする箇所に遭遇することがある。
 百田尚樹著「永遠の0」については、著者の社会的立場とか、政治的意見とかについては、全く知らない状態で読んで、愚かにもというべきだろうか、純粋に感銘を受けたのだが、ただ、どうしてもおかしい、間違いと言えないとしても著しく不適切だと感じる箇所があった。
 それは、物語の狂言回しというべき登場人物が、司法試験の受験生で、論文試験まで合格したのに、口述試験で不合格となり、翌年、口述試験のみを受験して、再度不合格となってしまった、というくだりだった。
 かつての司法試験は、作品の中で描かれているように、論文試験まで合格すれば、口述試験で不合格となっても、翌年再度口述試験から受験することができた。そして、口述試験で不合格となってしまって翌年最終合格した受験生も知っているし、確かに、翌年再度不合格となってしまったという受験生も、ごくごく稀に、だが、いたことは承知している。
 しかし、問題は、小説の中の彼が、翌年、口述試験のみを受験して、再度不合格となってしまった、というところである。
 そういう受験生も現実にいるのだろうか?
確かに、絶対にいない、絶対あり得ない、とは限らない。しかし、絶対に、とは言えないまでも、ほとんどいない、ほとんどあり得ない、とは言って良いだろう。
 なぜなら、前年に論文試験まで合格し、口述試験で不合格となってしまった受験生には、論文試験までの受験を免除してもらう出願と、最初の短答式試験から受験し直す出願との、重複しての出願が許されていたからだ。もちろん受験料は二重にかかるのだが、それにしても、そのような立場に立った受験生は、まさしく小説が描いているような事態を防ぐために、その二倍の受験料の支出は惜しむはずがない。司法試験は難関だったから、合格のためには皆、万全を期しており、口述試験で不合格となった翌年に、口述試験のみを受験する、などという悠長なことをする受験生は、現実にいるとは思えない。「そんな奴おれへんでー。」である。
 もうひとつの例は、著者の社会的立場などについても、相応の敬意を感じているつもりでありながら、これはあまりに残念、という例である。
 村上春樹著「騎士団長殺し」である。
 この作品の中に、内容証明郵便が登場する。
 内容証明郵便に、登場人物は、本文の文書以外の物を同封するのである。
 内容証明郵便に、本文の文書以外の物を同封することが許されたら、どんなに便利だろうか、と思うことは、何度かある。それは、内容証明郵便の制度として、許されていないのである。そのことは、知る人ぞ知る、知っている人はみんな知っている(当たり前だが)、専門的ではあるかも知れないが、常識に属することである。
 村上春樹氏は、それを踏まえないことを、書いてしまった。これは、明らかに、誤りである。誠に残念である。
 そういうところについては、編集者がきちんと点検して作品が世に出る前に是正を図るべきではなかったのだろうか、などという意見も聞く。その一点程度で作品の文学的価値が落ちるわけではない、という擁護論もあり得るところではあるが、僕は、作品の傷となることは否めないように思う。
 とは言え、おそらく、作品を書く側に立ってみると、そうした誤りや不正確、不適切な内容を回避することは、かなり至難なのではないか、という気がする。森羅万象について、正確な知識がないと、世の中のあらゆることを描くことなどできないのではないかと思われる。創造者の仕事とは、そういう厳しい仕事なのかも知れないが・・・・・。