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ドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」を見た

ドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」を見た。
数年前に何者かの凶弾に倒れた医師中村哲さんの35年間の活動を記録したものだ。
中村さんの活動は、苦難の連続だったと言うことがよくわかる。
 診療活動自体にかかわる苦難、ソ連、アメリカの侵攻によってもたらされた苦難、干ばつによる子どもや老人その他住民の栄養不良で、治療以前の問題だという苦難。
それを克服するための灌漑事業に対する自然の猛威による苦難。家庭内でのお子さんの病気と死去という苦難。
 中村さんの表情は、にこやかな表情の時もあるが、概して、厳しい顔立ちだ。
 こうした苦難を反映したものなのだろう。
 中村哲さんの35年の活動の記録は、生前の中村さんの、いわば、いける国際貢献、いける日本国憲法と評して良いのではなかろうか。
 中村さんご本人や医療その他のスタッフの皆さんのみならず、この感銘深い映像を35年の長きにわたって記録し続けてこられたスタッフの皆さん、日本電波ニュース社の方々にも深い敬意を覚える。
 今ロシアによるウクライナ侵略という事態を前に、日本だけでなく世界中の人々が浮き足だっているという印象を受ける。
 この映画が、私たち自身が落ち着きを取り戻して、ウクライナ、ロシアの人々、我が国と自分たちを含む世界中の人々の安心のために何ができるのか、考えるきっかけになればと思う。
中村さんは、日本国憲法と並んで、日本人の誇りと言うべきだろう。
でも、そうした中村さんも、凶弾に倒れざるを得なかった。この世界の理不尽を思う。
ロシアのウクライナ侵攻の理不尽とともに。

芥川賞受賞作を読んでみた

 書店に芥川賞受賞作を掲載した「文藝春秋」が平積みで並んでいると、つい買ってしまう、という行動が何十年も続いている。
 にもかかわらず、買ったまま、読まずに「積ん読」というのも、長年続いていて、ほとんど、受賞作を、その買った「文藝春秋」で読んだという記憶がない。間違いなく読んだ記憶があるのは、当時、たしか京都大学の学生だった平野啓一郎氏の「日蝕」くらいだった。
「日蝕」についての読後感は、「何だ、この小説は!?」というもので、この作品のどこに文学賞受賞に値する価値があるのか、著者が何を言いたいのか、など、全くわからない、というものだった記憶が鮮明である。
 その著者が、近年の作品「マチネの終わりに」では、作品の背景として書かれている社会情勢についての視野の広さ、博識、調査ぶりなどにうならせられるし、また、近時の彼の様々な社会的発言にも、共感すること多大であるのだから、不思議なものである。
 さて、今回の受賞作「おいしいご飯が食べられますように」高瀬隼子著は、我ながらどういう風の吹き回しか、良く分からないのだが、読んでみた。
 読みやすくてどんどん読み進んでしまった。「日蝕」が、確か中世ヨーロッパが舞台だったのと違って、現代日本の職場、ということで身近だったこともあるのだろうか。
 しかし、読み進みやすさと反対に、書かれている内容は、とても違和感に満ちていた。
 違和感の中心は、二谷という、主人公の男だ。この男、私自身とは全く違う価値観、世界観の中にいるようだ。
 まず、この男、食事というものに価値を見いだしていないようだ。幼い頃から食い意地のはっていたことを自覚せざるを得ない、減量の苦手な私は、食欲は、ヒトの個体の生存のために不可欠な基本的な欲求である、と、自らの正当性を強調したいのだが、この小説の主人公は、全く違う価値観の下に生存を維持しているらしい。では、この小説の主人公にとって、何が重視すべき価値なのだろうか。文学、なのだろうか。
 それから、建て前と本音の乖離の著しさ。芦川さんという女性に対して、内心で軽侮の念を抱き,陰では、嫌がらせ行為までしながら、肉体関係を重ね、「容赦なく可愛い」と感じ、きっとこの後、小説の結末の後には、結婚するのだろうと予想される。
 その反面で、押尾という女性とは、もっと心が通っているらしく、対芦川の嫌がらせ行為についての共謀関係すら持ちながら、結局肉体関係は持たず、この後、どんな関係になっていくのかわからない。おそらく疎遠になっていくのだろう。
 元文部科学事務次官の前川喜平氏の著書「面従腹背」は、衝撃的で、自分に役人はできないな、と感じさせられたものの、それでも、異星人のような、理解できない、というほどの感覚はなかった。
 この小説の主人公二谷は、心が通わない、内心軽侮の対象としている女性芦川と、肉体関係を持つことができるというだけなら、まだかろうじて理解できないわけでもないが、結婚して、人生をともにすることもできてしまうのだろうか。そこまで来ると、私にとっては、異星人。完全に、理解の外というべきだろう。

文学作品と誤り

 近年、小説を読んでいて、これは、間違いと言うべきだと感じたり、間違いと言えないとしても、著しく不適切だと感じたりする箇所に遭遇することがある。
 百田尚樹著「永遠の0」については、著者の社会的立場とか、政治的意見とかについては、全く知らない状態で読んで、愚かにもというべきだろうか、純粋に感銘を受けたのだが、ただ、どうしてもおかしい、間違いと言えないとしても著しく不適切だと感じる箇所があった。
 それは、物語の狂言回しというべき登場人物が、司法試験の受験生で、論文試験まで合格したのに、口述試験で不合格となり、翌年、口述試験のみを受験して、再度不合格となってしまった、というくだりだった。
 かつての司法試験は、作品の中で描かれているように、論文試験まで合格すれば、口述試験で不合格となっても、翌年再度口述試験から受験することができた。そして、口述試験で不合格となってしまって翌年最終合格した受験生も知っているし、確かに、翌年再度不合格となってしまったという受験生も、ごくごく稀に、だが、いたことは承知している。
 しかし、問題は、小説の中の彼が、翌年、口述試験のみを受験して、再度不合格となってしまった、というところである。
 そういう受験生も現実にいるのだろうか?
確かに、絶対にいない、絶対あり得ない、とは限らない。しかし、絶対に、とは言えないまでも、ほとんどいない、ほとんどあり得ない、とは言って良いだろう。
 なぜなら、前年に論文試験まで合格し、口述試験で不合格となってしまった受験生には、論文試験までの受験を免除してもらう出願と、最初の短答式試験から受験し直す出願との、重複しての出願が許されていたからだ。もちろん受験料は二重にかかるのだが、それにしても、そのような立場に立った受験生は、まさしく小説が描いているような事態を防ぐために、その二倍の受験料の支出は惜しむはずがない。司法試験は難関だったから、合格のためには皆、万全を期しており、口述試験で不合格となった翌年に、口述試験のみを受験する、などという悠長なことをする受験生は、現実にいるとは思えない。「そんな奴おれへんでー。」である。
 もうひとつの例は、著者の社会的立場などについても、相応の敬意を感じているつもりでありながら、これはあまりに残念、という例である。
 村上春樹著「騎士団長殺し」である。
 この作品の中に、内容証明郵便が登場する。
 内容証明郵便に、登場人物は、本文の文書以外の物を同封するのである。
 内容証明郵便に、本文の文書以外の物を同封することが許されたら、どんなに便利だろうか、と思うことは、何度かある。それは、内容証明郵便の制度として、許されていないのである。そのことは、知る人ぞ知る、知っている人はみんな知っている(当たり前だが)、専門的ではあるかも知れないが、常識に属することである。
 村上春樹氏は、それを踏まえないことを、書いてしまった。これは、明らかに、誤りである。誠に残念である。
 そういうところについては、編集者がきちんと点検して作品が世に出る前に是正を図るべきではなかったのだろうか、などという意見も聞く。その一点程度で作品の文学的価値が落ちるわけではない、という擁護論もあり得るところではあるが、僕は、作品の傷となることは否めないように思う。
 とは言え、おそらく、作品を書く側に立ってみると、そうした誤りや不正確、不適切な内容を回避することは、かなり至難なのではないか、という気がする。森羅万象について、正確な知識がないと、世の中のあらゆることを描くことなどできないのではないかと思われる。創造者の仕事とは、そういう厳しい仕事なのかも知れないが・・・・・。