地方の弁護士八面六臂・田舎の弁護士七転八倒

地方?田舎?の 熱血?血の気の多い?弁護士の生活と意見です

芥川賞受賞作を読んでみた

 書店に芥川賞受賞作を掲載した「文藝春秋」が平積みで並んでいると、つい買ってしまう、という行動が何十年も続いている。
 にもかかわらず、買ったまま、読まずに「積ん読」というのも、長年続いていて、ほとんど、受賞作を、その買った「文藝春秋」で読んだという記憶がない。間違いなく読んだ記憶があるのは、当時、たしか京都大学の学生だった平野啓一郎氏の「日蝕」くらいだった。
「日蝕」についての読後感は、「何だ、この小説は!?」というもので、この作品のどこに文学賞受賞に値する価値があるのか、著者が何を言いたいのか、など、全くわからない、というものだった記憶が鮮明である。
 その著者が、近年の作品「マチネの終わりに」では、作品の背景として書かれている社会情勢についての視野の広さ、博識、調査ぶりなどにうならせられるし、また、近時の彼の様々な社会的発言にも、共感すること多大であるのだから、不思議なものである。
 さて、今回の受賞作「おいしいご飯が食べられますように」高瀬隼子著は、我ながらどういう風の吹き回しか、良く分からないのだが、読んでみた。
 読みやすくてどんどん読み進んでしまった。「日蝕」が、確か中世ヨーロッパが舞台だったのと違って、現代日本の職場、ということで身近だったこともあるのだろうか。
 しかし、読み進みやすさと反対に、書かれている内容は、とても違和感に満ちていた。
 違和感の中心は、二谷という、主人公の男だ。この男、私自身とは全く違う価値観、世界観の中にいるようだ。
 まず、この男、食事というものに価値を見いだしていないようだ。幼い頃から食い意地のはっていたことを自覚せざるを得ない、減量の苦手な私は、食欲は、ヒトの個体の生存のために不可欠な基本的な欲求である、と、自らの正当性を強調したいのだが、この小説の主人公は、全く違う価値観の下に生存を維持しているらしい。では、この小説の主人公にとって、何が重視すべき価値なのだろうか。文学、なのだろうか。
 それから、建て前と本音の乖離の著しさ。芦川さんという女性に対して、内心で軽侮の念を抱き,陰では、嫌がらせ行為までしながら、肉体関係を重ね、「容赦なく可愛い」と感じ、きっとこの後、小説の結末の後には、結婚するのだろうと予想される。
 その反面で、押尾という女性とは、もっと心が通っているらしく、対芦川の嫌がらせ行為についての共謀関係すら持ちながら、結局肉体関係は持たず、この後、どんな関係になっていくのかわからない。おそらく疎遠になっていくのだろう。
 元文部科学事務次官の前川喜平氏の著書「面従腹背」は、衝撃的で、自分に役人はできないな、と感じさせられたものの、それでも、異星人のような、理解できない、というほどの感覚はなかった。
 この小説の主人公二谷は、心が通わない、内心軽侮の対象としている女性芦川と、肉体関係を持つことができるというだけなら、まだかろうじて理解できないわけでもないが、結婚して、人生をともにすることもできてしまうのだろうか。そこまで来ると、私にとっては、異星人。完全に、理解の外というべきだろう。