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立憲主義、法の支配と検察庁法改定案

 早くも6年近く前のこととなった2014年7月1日の、集団的自衛権行使容認の閣議決定以来、第2次以降の安倍内閣の下で、立憲主義とか法の支配とかに関わる重大な事態が、目白押し、といえるような状況に至って久しい。
 が、自然災害的な側面もある、新型コロナウィルスによる感染症の世界的まん延という、世界史的な重大事態の中で、国家公務員法改正案とセットになった検察庁法改定案は、また、その中でも極めつけといえるだろう、無法を法定するような、おそるべきものだと感じる。
 この法案提出については「火事場泥棒」という表現がよく聞かれるが、その表現は、言い得て妙、全くその通りだと思う。国民の皆が、いや、世界中の人々が、感染症の不安で人間らしい交流も制約され、もちろん政治的な集会やイベントなど思うようには出来ない状態のもとで、今の民意とはかけ離れた議席数を背景に、法の改悪をかすめ取ろうとしている。
 しかも、本来は別の問題である、検察官以外の一般の国家公務員の定年延長問題と、わざわざ抱き合わせ一括法案として提出している。


 この間、森友学園疑獄、加計学園疑獄、さくらを見る会疑獄と、安倍政権中枢に関わる疑獄が、十分に追及され尽くすことのないまま、うやむやな状態が続いている。
 森友学園公文書改ざん、すなわち虚偽公文書作成罪という犯罪の疑惑について、学者、法律家などの市民団体からの告発に対して、検察庁は、佐川宣寿氏をはじめとする被疑者を全員不起訴処分にしている。
 それ以前から、小渕優子議員、松島みどり議員、甘利明議員、下村博文議員など、与党の議員たちは、犯罪の疑惑を持たれながら、十分に追及され尽くすことなく、もとより処罰などされることなく、終わっている。
 多少なりとも検察が頑張っていると思われるのは、河井前法務大臣夫妻の運動員買収疑惑問題くらいだが、この問題でも水面下で様々な闘争が繰り広げられていそうだ、ということは容易に推測できる。
 検察には不偏不党の立場で引き続き厳正な捜査を強く希望するところである。


 不偏不党の立場での厳正な捜査、といえば連想されるのが、「秋霜烈日」という言葉である。秋霜烈日とは、刑罰、権威、節操、意志の厳正なことを示す言葉だそうである。
 そして、検察官が付けるバッジは「秋霜烈日」バッジといわれている。検察官の職責が厳正なものであることを象徴しているのだろう。
 その検察官、検察庁が、政権に忖度して、民主主義を壊す不正に対して、大甘処分をし、厳正さを維持できないような機関になってしまったら、国家や社会は、公正な社会ではなくなってしまう。
 我々が、国家や社会の一員として生活する上では、それぞれの人権・権利・利益が、公平に、平等に確保され、一部の者だけが不当に利益を受けたり、逆に一部の者が不当に差別されて不利益を受けるようなことが、ない、ということが重要である。
 人の支配でなく法の支配、とか、立憲主義、とか言われるのは、法の下の平等という理念と相まって、明確な基準(法やその根本たる憲法)によらない一部の独裁者の恣意によって、一部の者だけが不当に利益を受けたり、逆に一部の者が不当に差別されて不利益を受けるようなことがあってはならない、ということに基づく社会の根本理念である。
 いま、安倍内閣の下で、上記の多くの与党議員たちが疑惑を追及されずに終わっている問題や、安倍首相を持ち上げる著書を書いた人物が、女性の性的自由を蹂躙する犯罪を犯した重大な疑惑を持たれ、逮捕状まで発行されたというのに、結局、現在まで強制捜査を受けることなく安泰な生活を送っている問題など、既に、公正さが相当損なわれる事態が進行している。
 検察庁法が改悪されると、検察官は、安倍内閣に気に入られれば定年延長してもらえ、気に入られないと定年退官させられる、ということができるようになる。
 安倍首相が、恣意的な運用はしない、といくら国会で答弁しても、「しっかイと説明責任を果たす」と言って全く説明せず、PCR検査体制充実の課題その他について「スピード感を持って取り組む」と言ってもノロノロと進展がないのと同様、到底信頼できないだけでなく、逆に「恣意的な運用をしますよ」という意味なのでは、などと勘ぐりたくなる状況である。
 さらに勘ぐれば、こうだ。
「さくらを見る会」疑獄について、安倍首相を政治資金規正法違反、公職選挙法違反の嫌疑で刑事告発する動きが法律家などの間で始まっている。この動きが進むと、自分自身の身が危ない、というような危機感があるのだろうか。
 だからこそ、こんな法案を、新型コロナウィルス問題の渦中、急いで成立させようとしているのだろうか。


こうした一連の状況は、お隣の韓国と、全く対照的だ。韓国では、政権担当者に対する検察の追及は、誰に対しても苛烈な印象だ。検察権限の行使が度を超して「検察ファッショ」などといわれるような状況にも問題は多々あるのだろうが、しかし、一部の者だけが、他人の人権・権利・利益を侵害しても、のうのうと生活していられるような公正を欠く社会は、困る。


 今回の検察庁法改定を巡って、三権分立との関係をいう議論がある。検察は行政権の一環なのだから、何故三権分立と関係があるのか、と疑問視する向きもあるかも知れない。
 だが、検察を巡る制度については、戦前においては、検事局が裁判所に附置されていたこと(ただし、裁判所ごと、司法省・司法大臣の監督に服することとなり、司法権の独立、三権分立は十分保障されてはいなかったが)、検察権の行使が司法権自体の作用に劣らず、刑事司法に重大な影響を及ぼす「準司法作用」ともいわれる作用であることなどから、政治権力、行政権力に左右されない適正な行使が求められ、ある程度、行政権からの独立が確保される必要がある、と、一般的に指摘されていること、などに鑑みれば、三権分立とも無縁なものではないと理解できると思う。


 人権尊重、平等・公平、法の支配・立憲主義、など、民主社会の基本を、検察庁法の改定によって、もうこれ以上破壊させてはならない、と痛感する。